高野山真言宗石室山無量寿院世界遺産五百羅漢・羅漢寺〜石見霊場客番十善戒第三番札所〜

 

羅漢寺 五百羅漢は、平成19年(2007)7月2日に、ニュージーランドで開催されたユネスコの世界遺産委員会において、世界遺産条約の「世界遺産一覧表」へ登録された『登録名称:石見銀山遺跡とその文化的景観』の構成資産の一部です。  金剛山安楽寺へ

〜石見霊場客番十善戒第三番札所〜

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羅漢寺・五百羅漢平成の大修理

羅漢寺・五百羅漢の今昔

和尚が行ってきました

 

五百羅漢について

 

五百羅漢建立の由来

五百羅漢の写真1天領期(江戸時代)、石見銀山御料四万八千石の中心地、大森町三百水の地に五百羅漢が出来上がったのは明和3年(1766年)3月である。

五百羅漢の発創は時期的には判然としないが、およそ元文年間(1736年〜1740年)の頃、大森代官所役人で同心を勤める中場五郎左衛門定政で、定政はある日、大森町の中心部の岩山にある観世音寺(真言宗代官所の祈願所)へ参詣し、そこの石像十六羅漢を拝んで、「これを生して五百躯の羅漢を安置したら、さぞ壮観であろう」と住職の月海上人に話したことから、数年を経て代官関忠太夫が赴任(1737年〜1744年)、亡夫の冥福を祈るためと一躯を寄進し、続いて関代官所係のもの三躯が寄進され、これが五百羅漢の発端となった。

羅漢は正式には阿羅漢といい、佛教の究極の悟りに到達し、人々から尊敬・供養を受けるのに合いふさわしい境地に至ったものを言います。小乗佛教では佛弟子の最高の境地をさし、佛とは区別して使われていますが、中国や日本では十六羅漢などが知られています。

五百羅漢像はすべて福光産(現在の大田市温泉津町福光)の石像で笑っているもの、泣いているもの、説法をしているもの、天空を仰いでいるもの、布袋和尚に似ているもの、太っているもの、痩せているもの、等様々の面相と姿態は石見銀山御料内の福光村石工、坪内平七一門の手によって二十余年間の歳月が費やされて完成したものである。

五百羅漢の写真2

初代の石工、坪内平七は五百羅漢を手がけるまで、未だ五百躯の羅漢像を見たことがなかった。そこで巷で聞いていた真言宗楞厳寺(りょうごんじ)(現在の温泉津町福光)の秘蔵、五百羅漢絵図の拝観を申し出たが寺側は「自寺の檀家に入るならば」と言うことで転宗したと伝えられている。

一説には江戸、芝の増上寺所蔵、中国伝来の秘宝羅漢図を拝んでこれを描写し、帰国し彫刻に向かったとも言われて、非常な努力がなされたエピソードを残している。

五百羅漢の写真3五百羅漢の着想は、初めは漠然としたものでしたが、これが具体化するにつれて、佛道の流布と済世治民のため、又石見銀山の堀子達の供養のため、死者の冥福を祈って石見銀山御料内はもちろん他藩まで出かけ、果ては中国一円を巡って浄財を募ったが思うように集まらなかった。

そうした折、宝暦五年(1755年) 9月、羅漢造像の幹事を預る加藤輝利(月海上人の弟)が病死し、翌年 6月(1756年)正月、発起人の中場五郎左衛門定政も亡くなった。

途方にくれた月海上人は出来上がりの羅漢 60〜70躯を生まれ故郷の御料内にある波根東村(現在の大田市久手町波根)の波根湖の辺りに移そうと考えていた。

その頃、元大森の町役人であった河北甚右衛門通賀(泉屋)がこのことを聞いて、友人の銀山付役人(代官所役人)で経済的に裕福な中山荘兵衛門賀光に相談、賀光所有の三百水の地を羅漢像の安置場所として寄進してくれるよう懇願した。

賀光はかねて父重光が願っていた無量寿院を建てるためと、五百羅漢を護るため、羅漢寺の建立を併せて田畑も寄進、永代偉業を伝えるために三百水の地を快く寄進した。時に宝暦の初期である。

以後羅漢造像の仕事は河北賀光と、その同族の人々によって再び始められた。宝暦 12年(1762年)、名主上りの名代官川崎平衛門定孝が大森に着任すると五百羅漢造像に非常な熱意を示し、自らも三躯を寄進して江戸湯島の霊雲寺(羅漢寺の本山)の光海上人に援助を仰いで田安御殿や江戸城本丸、大奥の女中、引いてはその関係者など江戸城下から実に三百四躯の寄進を受け、完成を早めた。

五百羅漢の写真4その頃、石見銀山も産銀が激減して、山稼ぎの人達もともすれば心が荒みがちになっていた。この五百羅漢造像の話は人々に安らぎを与え、銀の運上も例年の三倍になるほど活気が再び蘇った。

後年、五百羅漢を拝観、死んだ父母や近親者に会えるという噂が広まり、善男善女が近郷近在から集まって賑わい各村々から豪農、農家は争って羅漢像を寄進したという。

宝暦9年(1759)10月2日、月海上人は五百羅漢の完成を待たず往生を遂げた。

明和 3年(1766) 3月春、爛漫と咲きにおう羅漢寺境内地に立派な石窟三所と石橋三基が完成し、大法会が行われた。羅漢寺本堂から眺める石窟は壮観であり、あたかも極楽浄土が目の前に見えるように人々は思った。門前には露天商が並んで芝居小屋や茶店や居酒屋が軒を連ねた。明和 8年(1758) 6月4日沢山の五百羅漢を寄進した。

田安中納言卿(徳川九代将軍家重の弟)が亡くなり、その年の冬、卿の夫人は因縁の深かった石見銀山御料大森の三百水の地に江戸霊雲寺の光海上人に頼んで銘文を書かせて宝鏡印塔(高さ 5.5m)を石窟左側の岩壁を削って基礎をこしらえ建立させた。

でき上がった羅漢像はそのほとんどが座像で高さは 36pから 47p位で極めて綿密に刻まれ極彩豊かに塗りあがっている。

五百羅漢の写真5

五百躯の羅漢座像は中央石窟(高さ1.6m、奥行き3.07m)を境にし、左右の石窟(奥行き8.0m、幅11m)へ二百五十躯ずつ安置された。左窟(向かって右側)は阿南尊者を中心に二百五十躯(現在数)を、右窟(向かって左側)は日蓮尊者を中心に二百五十躯(現在数)が安置されている。

中央窟は明治 5年の浜田地震により、一部が崩壊し、長年の風雨に色彩は薄れているが、釈迦如来、向かって左側に文珠菩薩、向かって右側に普賢菩薩が安置してある。

羅漢座像はそれぞれ背面または裏面に施主名と寄進の年月日が刻まれている。

昭和 41年5月31日付で島根県教育委員会から件指定有形文化財(彫刻)に指定された。

なお、羅漢寺には室町時代の秘佛(大元師明王立像)と(降三世名王立像)・・・いずれも大田市教育委員会から大田市指定有形文化財(彫刻)と指定された。

 

釈迦如来(しゃかにょらい)

仏教の教えを最初に説いた人。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

諸仏の知恵をつかさどる菩薩。釈迦の脇侍として向かって右に位置しています。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)

如来の悟りの理法や禅定、修行の面をあらわす菩薩。釈迦の脇士(きょうじ)として向かって左に位置しています。

 

大宝筐印塔(だいほうきょういんとう)大宝筐印塔(だいほうきょういんとう)

国指定文化財 高さ三間余り(5.5m )

五百羅漢建立に協力された田安中納言宗武卿の菩提を供養するために夫人とその子、田安斉臣卿が明和8年に建立したものです。

宝筐印塔は、中国の呉越(ごえつ)王・銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされており、もともとは密教系の石塔でしたが、日本では鎌倉時代中期以降、宗派を超え各地で造立されるようになりました。

滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養を済ませること)の供養塔、墓碑塔として五輪塔と共に多く造立されたようです。

宝筐印塔は、その形により関東形式、関西形式に分けられますが、羅漢寺に建立されているのは関西形式です。

 

大宝筐印塔図解

 

 

反り橋反り橋(そりばし)

福光石を十五枚組み合わせて作られた三基の橋で、石窟の前を流れる銀山川の支流に架かっており当時のまま現在に至っています。

 

三百水三百水

この地に五百羅漢が建立されるはるか昔から流れ出る湧き水で、450年余りの歴史をもちます。

当時、土地の人々はこの水を桶で担いで銀山に「一荷三百文」で売り歩いたことから三百水の名が付けられました。渇水時にも枯れることなく湧き出す清水は「島根の名水100選」にも選ばれている清冽無比の霊水です。

水の粒子(クラスター)が非常に細かく、体への浸透率が高いと言われます。容器はお寺でも販売しておりますが、お持ち帰りの容器(ペットボトル等)をご持参いただければご自由にお持ち帰りいただけます。

 

【お願い】

五百羅漢および羅漢寺境内における写真撮影・ビデオ撮影につきましては、お断り申し上げます。

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石工について

福光石の歴史

五百羅漢国の指定史跡、石見銀山遺跡のなかに羅漢寺の石窟五百羅漢座像群が、福光の石工、坪内兵七利忠とその一門の手で造られたことは有名です。

石見国の全域、特に石東地域に広がる石の仏たちや墓石など石造品の 70%近くが、福光産の石が原料になっています。

何気なく辿る石見路のひなびた道の傍らでお地蔵様や古い道しるべなどを見つけたら、それはきっと福光石を刻んだものと考えられます。

福光石の初代は、不言城主の子であり、後に鳥取城の城主となった吉川経家の家臣、萱谷(かやたに)氏と言われています。 生活の糧とするため、福光石を加工することを思い立ち、不言城主・吉川経安は大阪から石工の棟領、坪内弥惣兵衛を招いて指導を受けます。

後に子のない弥惣兵衛との師弟関係から萱谷氏の孫が坪内家の養子となり、坪内家が福光石工の本流となりました。坪内家の家系は固い結束の下に今も福光石との絆を持ち、福光石と共に生き続けています。

福光石工の中でも最も良く知られているのが前述の五百羅漢坐像を刻み、福光石の名を上げた坪内兵七で、坪内家の 5代目。そして現在、島根県下で唯一福光石を採石している坪内石材店の当主は坪内家 14 代目となります。

現在の福光石の製品は、墓石、灯篭、鳥居、地蔵尊などの石仏、狛犬、水ばち、石碑、玉垣、土台石、石臼、門柱、石塀、張石等の内外製材として利用されています。

銀山街道・松山の道標(右銀山大森・いづも大社と彫られている) 銀山街道・降露坂の石畳 佐毘売山(さひめやま)神社の石段

 

福光石の特徴

福光石の置物(現在の作品)福光石は、約 1600万年前の海底火山噴出物(火山灰等)が海底に堆積し、長い年月をかけて岩石となった堆積岩(凝灰石)です。淡青緑色で光の反射率が小さいため、落ち着きのある風合いが特徴です。

また、石質は粒子緻密で粘りがあり、重厚で優雅な仕上がりとなります。物理的性質が均質であるため、安定した強度が得られます。また、ノミ等による彫刻等の工作にも適しています。

現在は、福光石のソフトで淡青色の石色がもつ雰囲気や感触が好まれ、湿度調整・吸音効果、滑りにくいなどの特性を生かして、建物の壁や床材、浴室の床材や造園用材としても幅広く利用されています。

また、サインやモニュメントといった素材としても人気が高く、県内はもとより東北から九州まで全国各地でさまざまな用途で使用されています。

石切り場

福光 石切り場大田市温泉津町福光の石切り場は、約 450年間に及ぶ石の文化を窺い知ることのできる石山です。 膨大なのみ跡が山容を変え、福光石の採石場として唯一、今も操業が続けられています。

戦国時代後期以降、福光地区一帯から切り出された福光石は、石見銀山の人々の暮らしを大きく支えてきました。

大森の町並み保存地区と銀山柵内(さくのうち)で確認された墓石などの石造物は約 11,000基にものぼり、その大半が福光石です。

石工が仕上げた石造物は、牛馬が背負い銀山街道の難所・降露坂を越え、約 20キロ離れた大森にもたらされました。 コンクリートのなかったこの時代に、福光石は神社の鳥居や水路、街道を補強する石材など、さまざまな用途に用いられてきたのです。

 

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