高野山真言宗石室山無量寿院世界遺産五百羅漢・羅漢寺〜石見霊場客番十善戒第三番札所〜

 

羅漢寺 五百羅漢は、平成19年(2007)7月2日に、ニュージーランドで開催されたユネスコの世界遺産委員会において、世界遺産条約の「世界遺産一覧表」へ登録された『登録名称:石見銀山遺跡とその文化的景観』の構成資産の一部です。  金剛山安楽寺へ

〜石見霊場客番十善戒第三番札所〜

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石見銀山について

石見銀山全景(写真提供:東和建設工業様)日本を代表する鉱山遺跡『石見銀山』は、1967年に県指定史跡、1969年に国指定史跡となり、2001年にはユネスコ世界遺産候補として暫定リスト入りし、2007年7月に世界遺産として正式登録された日本最大級の銀山です。

戦国時代後期から江戸時代前期にかけて大量の銀を産出し、その鉱脈は石見國東部に位置する現在の島根県大田市大森の地を中心として、同市仁摩町や温泉津町まで広がる大規模なものでした。

(写真提供:東和建設工業様)

 

石見銀山の歴史

石見銀山は、古くは推古天皇(554〜628)の時代に、仙ノ山の山頂に霊妙仏が光を放ちながら現れたという伝説が残っています。また、『銀山旧記』によると、鎌倉時代・延慶2年(1309)に周防(現山口市)の大内弘幸が北斗星のお告げにより発見されたと記されています。しかし、自然銀を採っていた程度で本格的な鉱山の開発は進められてはいませんでした。

 

銀山旧記集(複製)

石見銀山は、大永6年(1526)、博多商人神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見されました。

この銀山発見のきっかけは、前述の『銀山旧記』という資料によると、「はるか南山を望むに嚇然なる光有り」とあり、神屋寿禎が仁摩町の韓島沖(からしまおき)を航海中に銀山が光ったためとされています。寿禎は、出雲国の鷺の浦で銅山を経営していた山師清水清右衛門の協力のもと、領主である大内義興の許可を得て、3人の堀子(吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門)と共に銀鉱石を掘り出しています。

 

仁摩町沖から見える仙の山(写真提供:東和建設工業様)

(写真提供:東和建設工業様)


さらに寿禎は、天文2年(1533)に宗丹、慶寿という二人の禅門を招き、『灰吹法』という銀精錬技術を導入しました。その結果、産銀に大幅な増加とコスト削減がなされ、安価な日本銀を求めて中国やポルトガルといった外国船が日本沿岸に現れるようになったといいます。やがてこの『灰吹法』という技術は、佐渡や生野など日本各地の金山・銀山にも伝わり、日本はかつてないシルバーラッシュを迎えることとなりました。石銀地区には、多くの人々が居住し、町が発達し、銀山開発から比較的早い時期に寺院[神宮寺(1549)、報恩寺(1558)、極楽寺(1660)など]が建立されていったようです。 

 

毛利元就書状享禄元年(1528)に大内氏が銀山を守るため矢滝城を築いてから後、地元の小笠原氏(現島根県川本町)、出雲の守護代である尼子氏(現島根県安来市広瀬町)の間で三つ巴の銀山争奪戦が繰り広げられ、さらに毛利氏(現広島県安芸高田市吉田町)までが加わり、銀山の支配も戦の勝敗によって二転三転しましたが、永禄5年(1562)にようやく毛利元就によって終止符が打たれました。毛利氏の支配は豊臣秀吉の共同管理の時期を経て約40年間続き、海外から鉄砲の火薬の原料・硝石を購入するなど石見銀によって毛利氏は財政面で大きな力を得、その勢力を徐々に拡大させていったようです。

御公用丁銀(ごくようちょうぎん)

 

天領となった石見銀山

慶長5年(1600)関が原の戦いに勝利した家康は、石見銀山をはじめ、佐渡・生野・伊豆・半田など貨幣鋳造に直結する全国の有力な鉱山を直轄地、天領(てんりょう)として支配しました。そうすることで、国内の金銀が、軍事、財政面で大きな力を発揮しました。


石見銀山の中で最大級といわれる大久保間歩内部のようす慶長6年(1601)、2万石を与えられ初代石見銀山奉行となった大久保長安は、毛利氏以来の政治の中心であった山吹城山麓の吉迫に陣屋を置き、その支配に当たりました。

当初天領の支配は、永安3年(1675)までは大久保長安をはじめとする8名の銀山奉行が行いましたが、その後、大森陣屋を放棄した最後の代官鍋田三郎右衛門までの190年間にわたり、37名の代官が行いました。天領支配のために大森に奉行所(後の代官所)を置き、江戸幕府の勘定奉行に直属する代官以下数名の役人と地役人が行政事務を担当しました。

歴代の代官の中でも有名なのが、「いも代官」の名で知られる井戸平左衛門正明です。地役人の中にも、大久保長安の支配下にあった佐渡・伊豆の鉱山の開発の中心的役割を果たした吉岡隼人・宗岡弥右衛門らは、その功績によって将軍より、それぞれ吉岡出雲、宗岡佐渡などの名を賜っています。

 


銀山で働く人々

『銀山旧記』によると、最盛期の江戸時代初期(慶長・元和・寛永頃)には、人口が20万人いたと記されています。佐渡金銀山では、よく「この世の地獄」と表現されるような強制労働があったようですが、石見銀山では、そのような残酷物語は残っていません。

 

一般公開されている龍源寺間歩内部のようす江戸時代の記録を見てみると、ここ石見銀山ではさまざまな労災制度や救済措置が取られていて、労働力が減少することを防ぐ対策がきちんととられていたようです。とはいえ、坑内作業が過酷な労働であったことは紛れもない事実で、上り下りが多い上に狭い坑内で行われる不自然な姿勢での作業や、水浸しの重労働、希薄な空気と発生するガスなどの悪い環境のために、坑内で働く人たちは病気になりがちでした。ことに「下財(げざい)」と呼ばれる堀子たちは、「けだえ」と言われる鉱山特有の呼吸病にかかり、若くして亡くなる人も多数いたようです。

 

世界的な鉱山遺跡

日本の歴史からみた石見銀山について語りましたが、では、世界から見た石見銀山はどのようなイメージなのでしょうか?

 

16世紀〜17世紀(毛利支配時代から江戸初期にかけての約100年間)、最盛期にあった石見銀は、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の主要財源として使われていました。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約一万貫(約38トン)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたと言われています。

石見銀山周辺が佐摩村と呼ばれていたことから、サマムラが訛って「ソーマ(Soma)銀」となり、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担います。

ドラード/日本図(石見銀山付近の表記)オルテリウス/アジア図

こうして銀鉱山として大航海時代のヨーロッパ人にも知られるところとなり、ポルトガル人の地図製作者がインドのゴアで作ったといわれる地図「ドラード(日本図)」(1568)には、石見銀山付近を指して、「RASMINAS DA PRATA (ミナス・ダ・プラタ:銀鉱山王国)」と記載されており、オルテリウス「タルタリア(韃靼)図」(1570)にも、日本に「minas de plata」(銀鉱山)という記載があります。このことからも、当時日本が世界における銀の一大産地であったことがよくわかります。

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石見銀山百景

 

 

 

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